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3_5_酒井田柿右衛門窯

 

酒井田柿右衛門窯  柿右衛門窯history

酒井田円西は、息子である喜三右衛門とともに陶器白磁染付などの磁器を製作していたが、やがて17世紀前半に喜三右衛門は赤絵磁器の焼成に成功し、柿右衛門を名乗った。

初代は乳白色(濁手)の地肌に赤色系の上絵を焼き付けるという柿右衛門様式(後述)と呼ばれる磁器の作風を確立し、その作品はヨーロッパなどにも輸出されマイセン窯などでは模倣品も作られた。

1666年に没した初代、その息子である二代(1620年 - 1661年)、二代の弟の三代(1622年 - 1672年)は製作期が重なっており、四代(三代の息子、1640年 - 1679年)までの間が初期柿右衛門とされる。

18世紀前半から19世紀にかけての八代(1734年 - 1781年)、九代(1776年 - 1836年)と十代(1805年 - 1860年)の期間は後期柿右衛門とされ、主に染付磁器を製作した。七代から八代にかけては四角の中に福の字が入った「角福」と呼ぶマークを施したものが多い。これは陶磁器に元々あったものである。

近代以降では、十一代(1839年 - 1916年1860年に襲名)は「角福」のマークの商標登録の可否などを争う訴訟を起こして経済的に困窮したが、海外にも積極的な出品を行なった。1919年には出資する事業家と共同で十二代が柿右衛門合資会社を設立し、赤絵技術と「角福」銘を供与した。しかし美術品の制作を志向する十二代(1878年 - 1963年)は会社と経営方針が合わず、1928年に関係を解消した。以降それぞれが「柿右衛門」作品を制作したが、1969年に和解し、その後合資会社は名義を使用していない。

十二代と十三代(1906年 - 1982年)は1947年頃から濁手の復活を目標とし、1953年に初めて濁手の作品を発表した。濁手の製作技術は1955年に国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択され、1971年には重要無形文化財に指定されている。